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第4話 愛人になった日

作者: けもこ
last update publish date: 2026-07-22 15:48:56

画面に表示されたのは、紗英が勤めるイベント運営会社の名前だった。

「はい」

『紗英さん? 今、どこにいるの?』

同僚の三田村佳奈の声だった。

いつも明るい彼女の声が、今日は強張っている。

「今日は、休みをもらってて。今は役所にいるけど……どうしたの?」

『今から会社に来られる?』

「今から? 休みの申請はちゃんとしているんだけど」

夫の葬儀のために3日前から慶弔休暇を取っていた。

『わかってるわ。でもね……ネットでニュースになってて』

紗英の手から、戸籍証明書が滑り落ちそうになった。

「ニュース?」

『あ......あのね。高槻雅人さんの葬儀で、妻を名乗る女性が騒ぎを起こしたって』

紗英は、息を止めた。

『出てる写真。顔は少し隠れてるけど、これ紗英さん......だよね?』

佳奈の声が途切れた。

電話の向こうで、誰かの声が遠くに聞こえる。

『だから言ってたでしょう』

女性の声だった。

紗英は、その声を知っていた。

職場の先輩である篠原奈津子だ。

奈津子は、長く一緒にホテル関係の装花を担当してきたベテランだった。

『私、前からおかしいと思ってたのよ』

『篠原さん、聞こえちゃうから』

少し電話を離して、佳奈が篠原を制する声が聞こえ、電話の向こうが静かになった。

佳奈が慌てたように、

『違うの、紗英さん。今のは――』

と言いかける。

しかし、奈津子の声は再び聞こえた。

『いつも迎えに来てた旦那って人。前にパーティー会場で見たことがあって』

紗英の指先が冷たくなる。

奈津子は知っていた。雅人が誰なのかを。

『紗英さんは夫だって言ってたけど、調べたら既婚者だったし、そういう関係なんだろうなって』

その声に思わず声をこぼす。

「そういう関係って……」

紗英の声は震えていた。電話越しに続く、喧騒の中の声は、遠いのにひどく耳に響く。

『不倫とか、愛人とか。そういう話って、本人には聞けないじゃない。ひどくデリケートな問題だし』

『篠原さん、少し黙ってください』

佳奈が、篠原に向かって投げた厳しい制止の声も、なんの慰めにもならなかった。

職場の人間の多くは、紗英の結婚を知らなかった。

フリーのフラワーデザイナーである紗英は、今の会社とは委託契約をしている。会社に結婚を報告するような事務手続きはない。

ただ、親しい友人には結婚を伝え、それなりに祝って貰った。

でも、事情があるのでしばらくは公にしないで欲しいと口止めをしていた。

会社に迎えに来てもらう時も、同僚に会うことはほとんど無かったし、ラフな姿で来る彼を何者か知る人などいないと思っていた。

でも、そうじゃなかった。

知っていた人は、紗英がすべてを承知したうえで、妻子ある男と暮らしていると思っていたのだ。

紗英は、携帯電話を握りしめた。

「私は、知らなかったの」

自分でも驚くほど小さな声だった。

『紗英さん……』

佳奈が何かを言おうとする。

「私は、本当に雅人さんの妻だと思っていたの」

電話の向こうから、返事はなかった。

沈黙の中に、疑いが満ちているように感じた。

後で連絡をすると告げて、いったん電話を切る。

ぼんやりと携帯電話の画面を見つめていると、ふいにニュースの通知が表示された。

――名門ホテル御曹司の葬儀に現れた「もう一人の妻」

記事の見出しの下には、葬儀場で澄香と向き合う紗英の写真が掲載されている。

顔にはぼかしが入っていた。

だが、黒い喪服も、髪形も、職場の人間が見ればすぐに分かる。

要約された記事には、こう書かれていた。

> 高槻雅人氏の妻を名乗った女性は、都内在住のフラワーデザイナー。

> 高槻家の関係者によれば、雅人氏と女性との間に婚姻関係はなく、女性が一方的に妻を名乗り、葬儀に訪れたという。

――女性との間には婚姻関係はなく――

二年間、雅人の妻として生きてきたはずなのに、この社会のどこにも、その事実は無かった。

そして今、自分は、夫の死後に現れた愛人として世間に知られようとしていた。

紗英の体に染み入るように、絶望と悲哀が足元から広がり始めていた。

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最新章節

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